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幸福の報告書
あり、どうしてこんな無理なことをしたのかと頭をかしげる事もありましたが、とにかく年ぐらいで全て返済も終わり、年の月日が過ぎようとしている頃、私達の仕事のことを叔父に相談したところ、御自分の所有している土地に15坪のプレハブの工場を建てていただける事となりました。そして移転した時にやはり叔父が興され、休眠中だった株式会社を譲り受け、株式会社ユーデンという名称の法人にすることができました。そして、引き続き代表取締役をお願いしております
 移転する少し前に、私の妻であるマリヤが子ども(洋子9歳)を連れて離婚し、兄である共同経営者の堀さんに世話になっていて一緒に働いていました。そしてよくある偶然のできごとのように私は思うのですが結婚することとなりました。つまり私達は二人しかいない職場での職場結婚ということです。もう一人は義兄なのですから。
 それから3年後バブル期ということもあり、すべて順調に進み40坪の工場を叔父が建ててくれることとなり、平成4年、現在の工場に移転することができました。翌年には叔父に土地を借り我が家を新築し、今、ご多分に漏れず住宅ローンの返済に苦しんでいます。我が家を建てる数年前に亡くなった妻の父親は、ピアノを教えて老後の生活を生き生きと過ごしておられ、使用していたピアノはセミコンサートというものでした。
 マリヤの母親と同居することとなり、そのピアノを形見として我が家に置いておくとの結論に達し、それにはピアノだけで四畳半ぐらいの空間が要求され、結局、我が家のリビングは21畳となりました。今はそのピアノは使って頂ける方がいることを調律士の先生からお聞きし、お譲りしてリビングにはありません。それでも時折、アップライトピアノの前で96歳の祖母がゆったりとシューベルトの「子守唄」などを奏でています、ご主人とのことを思い出しているのでしょうか。
 そのリビングに時々10人とか15人の人が集まり、なにやら楽しそうにしていることがありました。男の人は誰もいません。恐る恐る覗いてみると、テーブルの上にある飲み物は水だけです。昼食を我が家で食べる習慣の私は、そのような場面に出会うと挨拶もそこそこに弁当を持ち、作られている味噌汁、箸を2階に運び、食べ、こそこそと、また工場へ戻るわたしでした。
 私は妻のやっていることが浄水器を広めている事、それがネットワークビジネスだということを知っていました。なんの根拠もないのですが、なんとなく嫌な感じを持っていました。
 私は中学2年の時に転校し、以来、友人も少なくなるべく他人とのかかわりを持たないように生きていましたので多くの人、まして女性の輪というものはというものは私にとって、脅威そのものでした。なるべく顔を合わさないように逃げまわっていた様に思います。
 一緒に暮らすようになって8年、洋子がアメリカの大学に行きたいと言
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