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幸福の報告書
い、テキサス大学アーリントン校に入ることになりました。しかし語学力が足りず、半年後やっとトーフルに合格し、正式に学生になったのは翌年1月でした。その年の5月ニューヨークで洋子と友人wさん、私と妻の4人で合い、数日後、洋子たちが暮らし学んでいるテキサスへ移動しました。そこには実にさわやかな青空が広がっていたことを覚えています。
 彼女が行った当初は寮で、二段ベッド、上には見知らぬ異国の人という生活だったようですが、私たちが訪ねたときには4人それぞれが狭いながらも部屋を持ち、それに通じている畳ぐらいのだんらんの場所をもった、アパートに暮らしていました。台湾の人、アフリカの人、アメリカ人、それに洋子でした。私達夫婦は歩いてその建物から5分程の所にあるモーテル(日本ではビジネス用の貸し部屋ですか)に泊まりました。その民間アパートは大学の敷地の中にあり学生は安全な生活をフェンスに守られているようです・・・?
 彼女が行った当初は寮で、二段ベッド、上には見知らぬ異国の人という生活だったようの部屋を持ち、それに通じている8畳ぐらいのだんらんの場所をもった、アパートに暮らしていました。台湾の人、アフリカの人、アメリカ人、それに洋子でした。私達夫婦は歩いてその建物から5分程の所にあるモーテル(日本ではビジネス用の貸し部屋ですか)に泊まりました。その民間アパートは大学の敷地の中にあり学生は安全な生活をフェンスに守られているようです・・・?
 と言うのは余談ですが、英語が全くしゃべれない私が一人でそのモーターホテルへ帰ろうと、開いていた外に通じているカード式の出入り口から出てそのまま閉めたのです、すると中にいた大きな外人さんが私に向かってなにやら叫んでいました。怖いので早々にモーテルに逃げ帰り部屋の鍵をカチャ、後でマリヤに聞くとカードを部屋に忘れた学生が仲間に開けてもらい、棒のようなものを挟んでおいてカード無しで出入りするのだそうで、偶然にも私がそれに気付かずロックをしてしまったということでした。言葉が通じないための恐怖を経験しました。白人の顔が赤色矮星(こんな言葉は聞いたこと無いと思いますが)に変身したように感じました。  洋子の友人に、車で一時間程かかるダラスへ案内していただき、ケネディ暗殺の現場を見、アメリカ開拓時代を再現している町並みでは子どもの頃、映画、テレビで見た、当時のほこりの匂いに包まれました。
 3日間の滞在でしたが感じたことは、多くの若者がその場所で学び立派に成長し卒業していくのですから、たいしたものだと思うのですが、娘には、4年間学校の授業を受けるためだけにそこで生活を送るのはとても無理だろうということでした。そして、その年の暮れにクリスマス休暇で帰国したとき、ニューヨークの大学に転校する手続きを、英語で事務局の方と話していることに驚きました。日本を離れて約1年と半年、洋子が20歳の時でした。
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