「家族の絆」  S先生へのお礼

入院まで

約2カ月の時の経過の中で私は、社会福祉協議会・市役所福祉課そして健康福祉センターと多くの方々にお世話になり、健康福祉センターで相談員をなさっているJ病院のS先生との面接の機会をいただくこととなりました。
 15年ほど前より、周囲の方々の意見や思いやりを受け付けなくなっていた兄に対し、どう対処したらよいのか分からず、少々の金銭的負担(小遣いを渡す)で日々をやり過ごすだけの対応でした。ずいぶん前になりますが、市の相談窓口、隣接市合同の保健所など、兄について相談に行きました。相手の方が専門医ではなかったので内容は書きませんが、病気の認識のない兄に対し、なぜ専門医が面接に来てくれないのだろうか、そういう制度が存在しないのだろうかと、ずっと疑問に思っていました。今も、多くの方が、望んでいるのではないかと考えています。強制的にでも家族が病院へ連れてゆく、そして受診させる義務があるのだという人もいました。でも、そこには大きな落とし穴を含んでいるように感じられましたしたし、その行為は家族の絆を断ち切ってしまう恐れがあるとの思いから躊躇していました。恐ろしかったといってもいいのかもしれません。その判断については今もって、正否はわかりません。
 そう考えるようになった理由は、病院の事務の方との会話からです。その方は、信じられないといった表情をされ「15年ですか、この病気は早期治療が大切なのですがね」、と言われたことでした。実に長い時間を無理せず、なるがままにしてきてしまったこと、もし強制的に治療を受けさせていたら?と考えざるを得ませんでした。

 3月4日、鈴木先生は私から、兄の生活の様子を聞かれ、病名を統合失調症ではないか、そしてそのままにしてほっておくと本人、ご家族等、取り返しのつかない、恐ろしい未来の到来が予感される、と話してくださいました。何としても病院に連れて来なさいと、私に強く指示をなさり、ご心配は多々あると思いますが、全ての事はそれからのことです。とおっしゃってくださいました。
しかし、すぐさま思い浮かんだことは、兄が病院への同行をよしとするだろうか、いや、やっぱり拒否するだろうということでした。時々耳にするのですが、心の病は本人が病気だと認識できないことが根幹にあり、とっても治療が難しいと。兄もその通りで全てのことについて、自分の判断は間違ってはいないといいます。だから、説得のしようがないわけです。今まではそんなことであきらめていたのですが、この度は違いました。私は58歳、兄は60歳になります。このままの状況を5年・10年と続けていけるでしょうか。それは絶対にできませんし、続けてはいけないということです。
 鈴木先生との面会・相談、そこで行われた会話の重要性は私に、「どんなことをしても兄を病院へ連れて行くんだ」と決意をさせてくれたことにあるのだと思います。多くの困難が目に見えて存在している中で、実現させるためには、必ずそうする、そう出来るとの思いが大切なのではないでしょうか。先生の力に感謝申し上げます。
 兄を先生の病院へ連れてゆくには、住民票のある市役所へ行き、今住んでいるところへ移動をして、保険証の交付を受けなければなりませんでした。必死の思いで動き1日で完了しました。保険証の交付は翌日になりましたが、それは、病院に行く前に受け取っていくことにしました。
 役所の窓口で事情(本人が来られないこと)をお話しすると、全ての方がとても親切に対応してくださいました。
 3月5日、兄の住んでいる借家(わが家から歩いて2分ほど)、それは電気もガスも通じていないもので、取り壊す予定の叔父の建物です。以前兄はそこに住んでいたのですが、その時は電気もガスも使えました。老朽化したために、兄が転居した後、取り壊すことになり、それらを解約したのです。ところがなぜか壊されずに残っていたのです。
 私はその建物へ行き、昨日、先生にお会いして相談した内容、アドバイスを伝えました。それは将来、働けるように成るかも知れない、信頼できる先生に面会してもらえる、いい機会だから、などでした。
 ところが、その時の返事は違っていました。「行くよ」と言いました。精神状態が近頃、この何年かの間で一番落ち着いているように感じていたのも事実ですが、なぜ、行こうと思ったのかはわかりません。
 数か月もの間、風呂にも入らず、床屋にもゆかず、白くなった髪の毛は伸び、時々は結んでいました。髭もそのまま、仙人のような風情をしています。私も、親戚の方もお金を渡すから、床屋さんへ行ったらと何度も勧めました。でも、本人はこのままでいいんだと言います。
 「いくよ」とのまるで奇跡のような言葉を胸に、病院に電話をかけ、受付診察など、どのようにしたらよいのかを確認しました。もう一度兄のところへ行き30分後に出かけるよと伝え、その時刻に小さな車を借家の空き地に乗り入れると兄は、すぐにやってきました。
 3・40分、車中いろいろ話しました。とくにはっきり記憶をしていることは、即入院ということもあるよと伝えたこと、そして将来のためには医師を信頼するしかないということを何度も口にしました。しかしそれは、私自身に言い聞かせている言葉でもありました。
 国道463行政道路を所沢方向に走り右に折れ、病院に着きました。受付で一般的な生活についての質問の用紙を渡され記入し、しばらく待ちました。その間、診察を受けに来られた様々な方がいらっしゃいました。印象に残っているのは自動ドアーを抜けるや否やソファーに倒れこんでしまう人、とっても紳士で、身なりも整っている方、病気かな?と思う人。突然「ドスン大きな音がしました。横になっていた方がソファーから転げ落ちたのです。すぐさま看護師さん・事務員さんが駆け付けて車椅子に乗せ、別の部屋へ連れていかれました。15名から20名の患者さんが診察を待っていたでしょうか。

 私たちのところへ、若い女性の方が来られ、自己紹介をなさいます。医師の診察の前に総合支援室の担当のかたと相談をし、その後医師の診察ということでした。その方に奥の部屋へ案内され10分程度だったと思いますが、家族構成や普段の生活、心配ごと、本人が感じる身体の事、酒やタバコなどについて尋ねられ、終わると医師の診察まで、もう少しロビーで待つように言われました。
 しばらくして診察です、先ほどの方が診察室へ連れて行ってくださいました。先生はまず患者である兄、私に向って挨拶をされ、その後は、質問を色々されるのですがパソコンに向かってそれらを記入しています。殆ど振り向かれなかったようにも思います。いまどきの問診はこういう風にするんだなと、改めてパソコンの現代社会における位置と威力を感じました。
 次に言われたことは、「統合失調症だから入院した方がいいんですけどね「どうしますか?兄はとっても穏やかに「いいですよ」「入院しなくてもいいんじゃないですか」と繰り返します。今度は医師が、「それでは医師の判断での入院としますと言われ、弟である私に入院に関する書類に署名するように促します。私は、どんなことがあっても医師の判断に任せようと決めていましたので兄に、将来のために今日は入院をした方がいいよと言いながら、署名を致しました。
 兄もすぐに納得をしたのか、観念をしたのかゆっくりと言われるままに、看護師さんに促され、診察室の裏側から入院のための病棟に歩いてゆきました。風呂に入りましょう、明日、床屋さんが来るけど髪の毛を切りますか?と男の看護師さんから尋ねられています。やっぱり「切らなくて、いいですよ」と答えていました。入院の手続きの書類作成を終え、兄のいる病棟へ案内されました。入院時の持ち物という印刷物を渡され、下着・パジャマ・歯ブラシ・・・電池式髭剃りとありました。仙人の姿の兄が使うのかな? 下の売店で最低限のものを購入し、持って上がりました。すると兄は、すでにお風呂に入れていただき、病院の衣服を着ていました。最後に今日、来院時に着ていた衣服を渡されました。私にとって気にかかることは、この施設に入院している方たちと上手にやっていけるのかということでした。病院を信頼し、先生方を信頼し、お任せしたのだからと自分に言い聞かせ病院を後にしました。

保護者選任の手続き

私たち兄弟は生まれて間もなく、心臓の病気で父が死亡し、その時点で母は実家に帰されたと聞いております。当時我が家は、寝たきりの祖父、祖母、叔父、叔母とわしたち兄弟二人の子供の暮らしで、8畳4畳3畳それと狭いお勝手、離れてお風呂場がある長屋でした。そのような暮らし向きでの家族の判断ですので全てそれで良かったとする以外ありません。
そんな事情なので、唯の一度も母の所在を探したこともありませんし、周囲の人に尋ねることもしませんでした。母は私が今住んでいる、この地域の生まれであるということは、なんとなく聞かされていました。生別ということは生きているかもしれない、それだけで保護者選任の手続きが必要なのだと言われました。たとえどのような状況にあっても本人に親・兄弟・子供等が複数いる場合は裁判所でその選任の手続きをしなければならないのだそうです。
 私たちの生れた市役所市民課へ行き、殆ど書いたことがない父の名前を戸籍筆頭者のところへ記入し、戸籍謄本を申請しました。約60年前の記録から母の本籍を調べ、その市役所へ、そこで見ると再婚している記載があるので、今度はそちらの市役所を訪ねました。生れてはじめて母の名前を書きました。もちろん名字は私のものではなく、再婚後のものです。しばらくすると呼ばれ、結論はその籍に残っているということで生存が確認されたのです。

 ここで、私にしか持ちえない感情を記します。顔も知らない母のことです。56年前、昭和29年当時とは言え、幼い子供たちを残して実家へ帰りなさいと言われた時の、母の気持ちを思うと実に残酷な出来事で、言葉に出来できませんね。もっとも母の方からそうした方がよいと言い出したかもしれませんが。昨年12月21日に我が家に孫が生まれ、その可愛いこと、多くの文章が表わされているようにこの上なく愛おしいものです。そのかわいい盛りの子供たちを置いて実家に帰った母、時代のなせる業なのでしょう。
 調べていくうちに再婚していることが分かり、実に良かったと心の底から思いました。私の家では受け入れられなかった母の人生が、新しい結婚相手の家庭で実り85歳になっている今なお、そこの籍に存在していることでした。ご家族皆様、健康なのかどうかを含め、すべて分かりませんが健康で楽しく暮らしていると信じ祈る以外にありません。こんな文章を思い出しました。
 雪の世界の美しさは、地上のあらゆるものを白いベールで包み込む、不思議さかも知れない。人の一生もまた歳月の中で降り積もり、辛い記憶をうっすらと覆いながら過ぎ去った昔を美しく浄化させてゆく。もしそうでなかったら老いてゆくことは何と苦しいことだろう。
 老いている母に、私たちのことは忘れ去っていて欲しいと思います。
 必要事項を記入し、妻と二人、裁判所へ向かいました。テレビドラマでは時々見ますが、初めての裁判所はとても緊張しました。建物の間、とっても狭いところを抜けてゆく駐車場、入口内部にある告知板、書かれている文字、そこに佇む人、気配、異様な光景のように感じました。案内を確認すると4階が私たちの目的の家裁窓口のようでした。廊下で簡易受付があり、そこで対応してくださった方は、ほっとする雰囲気を持っている方で、持参するべきものにあった切手についてお聞きしました。しばらくすると呼ばれ、書類の確認で不備が見つかり、市役所で書類の取り直し、印鑑の購入、再度裁判所へ。2・3日で封書が届きました。そこには保護者の心得という文章とともに、保護者選任申立事件・審判・主文とありました。

生活保護申請

次に生活保護の手続きです。今日中に、この書類を提出してくださいと言われていましたので、病院の帰りに市役所へ寄りました。この申請については本人の人生全般を調べるような、厳しい深い調査があるようでした。家族構成、今までどこで暮らしていたのか、どんな職業に就いていたのか、預金口座は?ありとあらゆることを聞かれ、電話でも数回尋ねられました。しかし、担当の方は、いつも申し訳ありませんがといわれ、とても謙虚でそれでいて威厳のようなものを漂わせていました。生活福祉課というのは私たちのことを含め、生活が立ち行かない状況の方々をどう支援していけるのか、また、本人に頑張ってくださいと言わなければならないのか、ギリギリの選択が待っている部署です。担当の方のその風格もそんなところから来るのかなと思っていました。こんなこともありました。面会の時間、少し離れて待っていると、小柄ではあるが体格のがっちりした二人の男性が現れ、若い方の方が「お前ら金出せよ」と叫びながら、突然そこのカウンターを足で蹴りました、もう一人の男性は止めているようではありましたが。
 福祉の関係者に後でお聞きしたのですがこういう情景は珍しいものではありませんと言っておられました。本当に大変な仕事だとつくづく思いました。正しい情報かどうかわかりませんが、関西方面では20人に1人が生活保護を受給しているとお聞きしました。憲法25条にある権利とその平等性を期待したいものです。
 月15万円から20万円かかるとお聞きしている入院費用について、私たちは払い続けることは不可能です。しかし、万が一生活保護が認められなかったら、今掛かっている費用については、どんあことをしても払うしかありません。そして、通院で対処できないか?そんなことも考えました。
 働く意欲はあっても、他者と協調できないのでは仕事はできません。15年という長い間細々と、住む家はあるが誰からも、殆ど相手にしてもらえない生活を送り、また、どう見ても他者を怖がらせてしまう風体、この10か月は電気もガスもない生活を送っていた兄、親・兄弟・子ども等に扶養の義務があります。私たちには兄弟しかいません。私に経済的力がなく、その義務を果たせない状況を作ってしまったことを申し訳なく思います。60年間、あの時こうしていたら、あの時と振り返ると、選択の余地がなかったのかなとも感じられます。その時は、良し、と思って選ぶのですから。
 人は皆、決められた道を歩いている。それがすべてだ。そんなことを思いながら自らを慰めているしだいです。

見違える風貌

三日後だったように思うのですが、面会へ行くと坊主頭、顔もすっきり髭もありません。どういう心境の変化か一般の人と変わらない見かけになっていました。病院が強制的にそういうことはしないと伺っていますので、何か今までとは違うことを考え始めたのではないかと思いました。「髭どうしてるの?」買ってもらった電気(入院時に病院の指示にあった電池式の髭剃り)を使ってるよ。実にさわやかな表情でした。
しかし、会話の中身は外出、外泊のことばかりでした。まだ、つい先日までの自由気ままな生活を望んでいるのだと思います。
 「薬、飲んでるの?」と聞くと「少し」と答えます。全て飲んでいるのですが、そう答える兄、そこに何があるのでしょうか。外出・外泊そんなことばかり言う兄、面会に行くことが辛いひと時です。
 6人部屋、212号室一番奥左側、カーテンを開けると下に広い庭があります。行く度に開けてみるのですが、雑木林が遠くに見え、手前には畑が広がっています。穏やかな陽ざしに包まれ、庭では散歩をしたり、コーラス、キャッチボール、などをして遊び・学ぶ患者さん、時折、上空には航空機が飛んでいます。
 「洗濯した?」そう聞くと「出来ないんだよ」そう言います。1500円でカードを買い、それを使ってのカード式の洗濯機があると聞いています。心の中で様々な葛藤があり行動し、言葉を発する。とにかく心配をしない。任せる。私に出来ることはそれだけです。

誇れる人へ

半月がたち、初めて兄を診察していただいている、担当医となられた先生との面会の機会がありました。開口一番先生は、本当に驚きました。姿かたちがすっきりして、見違えてしまいました、と。病院スタッフとも上手に関係を保ち、とても良くなっていますねとおしゃいます。入院も任意に切り替えますと。兄の存在が「世間を怖がらせてしまう人から、入院をして病と闘う誇れる人」に変わった瞬間でした。
 ある日、知り合いの方が我が家に来られ、とっても気分が重いどこかいいところないかな?と言われます。私は即座に兄のことを話し慈光病院を紹介いたしました。ゆったりとした農地に囲まれた建物、それぞれに広いスペースを持った駐車場から車を降りて自動ドアを抜けると、左手は診察待合室への通路、通路向かいが受付、直接患者さんに接する方5・6名。そのほか3・4名の事務担当の方がいらっしゃいます。正面に通路があり、売店が奥にあります。右側は待合室で30人程度がゆったりできる空間、ソファーが心地よく配置され、人の流れを作っています。ガラス窓にカーテン、適度な明るさがあり、淡い色を基調にした、心安らぐものとなっています。待合室を売店へ向かう通路右手は総合支援室、そこは、患者となる前の相談に応じてくださいます。心の病の難しさを開くキーがそこにあるよう思います。自らの気分、身体の変調を察知した時、まず、第一になすべきことは専門家(ソーシャルワーカー等)との会話ではないでしょうか。
 最近のニュースで、この1年間に心の相談に訪れた人の数が、全国で23万人に達したと報道されていました。健全に生きてゆくことが困難なことの証明のようにも思います。
 兄がお世話になり1カ月になりますが、この病院の皆様から受ける印象は、誠実・安心・信頼以外にありません。私はこの病院のファン・応援団になりました。生きて行くとが難しいといわれるこの時代、いっそう重要性を増すであろう精神医療、巨大な医療軍団を率いていらっしゃりながら、私のような者にも親切にそして真剣に向き合っていただきましたS先生に、心よりお礼を申し上げると共に、これからのご活躍をお祈り申し上げます。

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